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河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/02/17 (Wed) 00:47:56
『下学集』(1444年成立) 氣形門
「獺 老而成河童者」

『節用集』(1496年版写本) 蓄類部
「獺 老成河童」

『運歩色葉集』(1548年版写本)
「河童(カハハラヘ) 獺化作河童」

『日葡辞書』(1603年)
※日葡辞書はイエスズ会宣教師が作成。主に西日本で蒐集した語彙を収め長崎で刊行。
「Cauaro(かはらう) 猿に似た一種の獣で川の中に棲み人間と同じような手足をもっているもの」

『多識編』(1630年、林羅山)
「水虎 カワタロウ
 封 カワノコ カワラウ」

『新刊多識編』(1631年、林羅山)
「水虎 今案みずのとら、一名カワラウ
 封 がわたろう」

黄桜の河童スレ

  • しろた
  • 2021/05/23 (Sun) 18:15:43
 そういえば黄桜の河童で建てたスレでも色々ありましたね。
貼っておきますね。

http://yokaikan.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16729085

玉川上水

  • しろた
  • 2021/05/17 (Mon) 14:51:15
 雪風さん投稿ありですよー!

 江戸時代。幕府は治水に力を入れて開発を進めていましたが、その際に河童の伝承が生まれるケースがいくつかありそうですね。

 道中記で調べた合羽橋の由来の一つとされている河童は、水害が深刻だった洗足池から水路を作って隅田川に流す一大工事を手伝ったという伝承が残っています(江戸の文化年間[1804-17])。
 こちらは、当時最下層の身分で隅田川流域などで皮革を行っていた人たちってことで、一応まとめてます。

↓↓道中記の河童の記事↓↓
https://yokaikan.jp/top/reg_sai02.htm#009
https://yokaikan.jp/top/reg_sai03.htm#010
https://yokaikan.jp/top/reg_sai05.htm

 皮革を行っていた「河原ノ者」と呼ばれた人たちは、かつては神聖視されてて治水にも携わっていたようです。
 ただ同じ江戸時代の治水が元になっていても、河童の正体・エピソードについては他に色々あるんじゃないかな?と踏んでます。

 どちらにしても、大陸由来の風水の神話は確か治水から始まってますし(伏羲と女禍)、

「治水そのものが神秘的・神的行い」

って認識が、江戸の人々にどこかあったのかも知れませんね。

玉川上水と河童伝説

  • 雪風
  • Site
  • 2021/05/17 (Mon) 10:11:44
玉川上水の畔にこのようなお店が有りました。
ご周知の通り人造川ですが江戸期に作られたものです。
今詳しく調べる時間が無いので、とりあえず
写真だけUP致します。

河童のヒロイン

  • 雪風
  • Site
  • 2018/08/13 (Mon) 19:29:44
河童のヒロイン、カン子ちゃんです。
今リメイクしてアニメにしたら
絶対萌え系になって、三平が他の
女の子になんかしたら絶対嫉妬でひっぱたいたりしますよ

黄桜

 黄桜は現代の河童と言えますね。
 川の中の集落で暮らしていた記憶が。

 こうして河童の歴史を振りかえってみると、人の世界で長い年月を経て出来上がった河童のイメージになるんですねぇ。感慨深いものがあります。

黄桜

  • 雪風
  • Site
  • 2018/08/11 (Sat) 07:28:27
CMがありました。

ただ小生、黄桜あんまり好きじゃないんですよ

中村禎里『河童の日本史』

  • 兵主部
  • 2016/05/27 (Fri) 23:49:32
生物史家である中村禎里によれば、江戸期の河童の行動の特徴は四つの段階に分けられるといいます。

第一段階は近世初期、つまり17世紀にあたる。
第一段階の河童の行動は次の五つ。
①人を水中に引き入れる。これは中世のヘビや近世同世代のスッポンなどの行為を反復しているにすぎないが、河童の生息地が川の淵・用水・堀などに特定される傾向がある。
②河童は人だけでなく馬にも執着する。
③人に捕えられると祟る。
④河童が人に相撲を挑む現象、および人に憑く現象はこの時期に始まる。
⑤この時期の河童の行動には、人への攻撃と人の反撃、河童の敗北と帰順といった民間伝承にみられる定型パターンはまだ現れていない。

次の第二段階は18世紀前半。
この段階では次の二つの行動が現れる。
⑥人に捕えられると謝罪と赦免、その返礼としての魚類の贈与、という特徴が現れる。
⑦この時期に女性を襲うという特徴も現れる。

第三段階は18世紀後半。
さらに二つの特徴が現れる。
⑧河童が手を切られる。
⑨手を返して貰う見返りに、手継ぎの秘法を人に伝授する。

第四段階は18世紀末からとする。
この段階では、中村が「先祖返り」と評した新しい特徴が加わる。
⑩いくつかの地域で、これまではどちらかといえば忌避すべき水の精霊=妖怪であった河童が祭祀の対象となる。
⑪九州地方では、山童との季節的変換、つまり山と里の去来伝承が生まれる。
⑫さらにまた、この時期に、河童が海に出没するという伝承が現れるようになる。
⑬この結果、水神関連の伝承、たとえば「竜宮童子系」の昔話とも連絡するようになる。

Re: 河童史料集

  • Site
  • 2016/03/24 (Thu) 22:09:54
私も情報提供。
河童関連の論文、随筆。

「河童をヒヤウスベと謂うこと」毛利龍一 1914年
http://fragezeichen.web.fc2.com/mononoke/shoko/m_shoko004.html

「河童資料断片」小池直太郎 1927年
http://fragezeichen.web.fc2.com/mononoke/shoko/m_shoko005.html

「河童の妙薬」中田千畝 1928年
http://fragezeichen.web.fc2.com/mononoke/shoko/m_shoko007.html

「河童の話」折口信夫 1929年
http://fragezeichen.web.fc2.com/mononoke/shoko/m_shoko002.html

「盆過ぎメドチ談」柳田國男 1932年
http://fragezeichen.web.fc2.com/mononoke/shoko/m_shoko019.html

妖怪館管理人より

  • しろた@館主
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  • 2016/03/12 (Sat) 14:09:25
 ふぁΣ
 こんなにたくさん!!よ、読みきれないww
 河童の資料ありがとうございます(;*´Д`)ハァハァ。

 会話的な内容は別スレでして、こちらは河童に関する資料専門でレスしていくとよさげですね。
 まぁ、堅苦しいルールにする必要はないですが。

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 01:11:32
江戸期の河童の随筆等の資料としてこんな感じですね。誤読や誤字があれば申し訳ないです。

河童を水神と捉える話も幾つかあり興味深いです。
また、現在では河童は悪戯好きだけどどこか憎めない、愛嬌のあるキャラクターですが、江戸期の河童は人間を襲い祟るなど凶暴な一面もあります。女性を襲うという話も現在ではあまり知られていない一面ですね。河童が吸血する話もあります。臓腑関連の話がありますが意外と尻小玉に関する記述が少ないのも興味深いですね。

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 01:06:16
『博多細伝実録』(1751~64年)(柳田『山島民譚集』より)
「筑前黒田家の家臣に鷹取運松庵と云ふ医師あり。妻は四代目の三宅各助が娘、美婦にして膽力あり。或夜厠に入りしに物陰より手を延ばして悪戯をせんとする者あり。次の夜短刀を懐にして行き矢庭に其手を捉えて之を切放し、主人に子細を告げて之を燈下に検するに、長さ八寸ばかりにして指に水掻あり、苔の如く毛生ひて粘りあるは、正しく本草綱目にある所の水虎の手なりと珍重すること大方ならず。然るに其夜も深更に及びて、夫婦が寝ねたる窻に近く来り、打嘆きたる聲にて頻に訴ふる者あり。私不調法の段は謝り入る、何とぞ其手を御返し下されと申す。河童などの分際を以て武士の妻女に慮外するさへあるに、手を返せとは長袖と侮りたるか、成らぬ成らぬと追返す。斯くすること三夜に及び、今は絶々に泣沈みて憫を乞ひければ、汝猶我を騙かさんとするか、我は外治の医家なるぞ。冷え切つたる手足を取戻して何にせんと言ふぞと罵る。御疑は御尤もなれども、人間の療治とは事かはり、成程手を継ぐ法の候なり。三日の内に継ぎさへすれば、假令前ほどには自由ならずとも、ことの外残りの腕の力になり候。偏に御慈悲と涙をこぼす。此時運松庵も稍合点し、然らば其薬法を我に伝授せよ、腕は返し興ふべしと云へば、河童是非に及ばすとて障子越に一々薬法を語りて書留めさせ、片手を貰ひて罷り還り、更に夜明けて見れば大なる鯰のまだ生きたるを、庭前の手洗鉢の邊にさし置きたりしは、誠に律儀なりける話なり。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 01:05:16
『北肥戦誌』(1720年序)
「抑々彼の塩見城主渋江家の祖先を如何にと尋ぬるに、人王三十一代敏達天皇には五代の孫、井出左大臣橘諸兄公の末葉なり。此諸兄、才智の誉世に高く、聖武天皇の御宇既に政道の補佐たりしより後、其孫子従四位下兵部大輔島田丸猶朝廷に仕へ奉る。然るに神護景雲の頃、春日の社常陸国鹿島より今の三笠山の移らせ給ふの時、此島田丸匠工の奉行を勤めけるに、内匠頭何某九十九の人形を作りて匠道の秘密を以て加持したる程に、忽ち彼の人形に火便り風寄りて童の形に化し、ある時は水底に入りある時は山上に到りて神力を播し、精力を励し被召仕ける間、思の外大営の功早速成就成りけり。斯くて御社の造営成就の後、彼の人形を川中に皆屑り捨てけるに、動く事尚如前、人馬六畜を侵して、甚だ世の禍となりけり。今の河童これなり。此事称徳天皇遙に叡聞ましまし、其時の奉行なれば兵部大輔島田丸急ぎ彼の化人の禍を鎮め可申旨詔を被下けり。斯て兵部大輔勅命を蒙り、則其趣を河中水辺に触廻りしかば、其後は河伯の禍なかりけり。是よりして彼の河伯を兵主部と名づく。主は兵部といふ心なるべし。夫より兵主部を橘氏の眷属とは申也。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 01:04:54
『北越奇談』(1812年刊)
「〈中略〉三島郡島崎村加右衛門といへるもの数代家に伝へる一塊の小石あり。その名をらず只血を止るに妙なり。諸血皆治す此石を疵口につくれば忽血止り痛去といへり。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 01:04:30
『越後名寄』(1756年刊)
「血止 三島郡西越庄嶌崎村の民家何れの頃にやありけん。農馬を野飼にし放置けるに毎ならす、逸足にて家路に走帰り厠に入けしからす。嘶きたり寄て見れは馬舟(当国の俚俗に畜馬食を入る器を馬船と云り)伏て口取綱の端其下へ引たりあやしみて。舟を引起して見れは河童其綱を体に繞ひ隠れ居たり時に同農民桑原嘉右衛門と云者其席に居合しに剛力なる男にて水獣(かわたろう)をとらへ腕を引抜たり。河童悲しみて云命を助け腕を返したひ玉はば血止骨接の妙術を伝へ又此里の産をは永く捕事有間しと誓をなしけるまゝ任せれ。願腕をかへし血止を受取代々家に持伝資とす金瘡血留りかたり。百方不応に嘉右衛門を招くに彼一物を懐中し来て席に着とひとしく早速血留り多く其物を取り出すに不及、況や又見る迄もなし。其形双六石の如くにて七八分斗成物に有之由いかなる物と云事を不知。当子孫迄五代所持せり。亦島寄村生れの人今世に至る迄決て水虎(かわたろう)の捕事なし奇異の事也。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 01:03:57
『水府志料』(年不詳、作者は1764~1840年)
「手奪川 野田村、鷺沼村より芹沢、捻木両村の間を落る小流なり。寛正六年酉の夏、芹沢隠岐守俊幹此辺逍遥し、日暮帰らむとして橋を過る時、馬進まず。俊幹怪みかへり見るに、物あり、馬の尾にとり付たり。俊幹即ち刀を抜て切たるに、異物の腕を打落せり。然れども如何なる物と云事知らず。其夜俊幹の寝たる枕元に異物来り、拝伏して申様、吾は前川に住める河伯也。今公の為に一手を伐らる。いかんともすべき様なし。願は
腕を返し給ゑ、吾に金瘡骨つぎの妙薬あり。ついで再び吾腕となすべし。其礼謝には右の奇法を伝へ奉るべしといふ。俊幹即ち伐取たる腕をあたへければ、大に悦び奇法を伝へ、且是より後、日々魚をとりて奉るべしと申て去りしが、果して明日より庭前の梅の枝に、日々魚一双かけ置り。これによつて芹沢家代々金瘡家伝の妙法あり。其後数年にして魚なかりし故、俊幹下僕に命じて前川を尋に、河伯死して、其屍流を逆上し、与沢の地に留る。即其地に厚く葬り、小祠を建て手接明神と号す。今に水旱、疫疾を攘事を祈るに、其しるしある事多しといふ。川の名是によつて名付けたり。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 01:03:37
『梅村載筆』(1657年以前成立)
「本艸綱目獣部に、封と視肉と土肉と同類のやうにしるせり。関東の海中に大魚あり。其肉をきるとれども、魚其いたみを知らず、潮にひたれば本のごとく愈といへり。其肉を俗にうきゝと名づく、是視肉のことにや。土肉は、又郭璞が江賦に、土肉石華あり、其註を見れば、なまこの類にや。関東の人はかはつはと云也、豊後国に多くあり。河中に住んで人をも牛馬をもとる、其形三歳の小児の如く、面は猿に似て身に異毛あり、頂きくぼくして水あれば力つよし、水なければ力を失う。或人とらへて是を殺すに、切れども通らず、然るに麻穰をけづりて刺せばよくとをると云伝ふ。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 01:03:07
『耳嚢』(天明~文化)
「寛政八年予初めて痔疾の愁ひありて苦しみしに、勝屋何某申けるは、小兒の戯れながら胡瓜を月の數もとめて、裏白に書状を認め姓名と書判を記し、宛所は河童大明神といへる状を添て川へ流せば、果して快気を得と教しが、重き御役を勤る身分姓名を、右戯れ同様の中に記し流さんは不成呪事也と笑ひしが、三橋何某も其席に有て、我も其事承りぬ、併大同小異にて、胡瓜ひとつへ右痔疾快全の旨願を記し、河童大明神と宛所してこれも姓名は記す事也といひ、何れも大笑ひを成しぬ。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 01:02:32
『閑窻自語』(1793年~97年)
「近江なりけるもののかたりしは、湖水にかはら(水虎、俗にかはたろう、あるひはかつぱなどいふなり)おほくあり。人をとり、あるはかどはかし、または夜ふけて、人の門戸にきたりて、人をよびなどするなり。これをさくるには、麻がらをおけばきたらず。またさゝげをいむ。これを帯ぶる人にちかよらず。又舟に鎌をかくるも、これをさくるまじなひといへり。肥前の島原の社司某かたりていふ。かの国にもかはたらう多くあり。年に一両度ばかりは、かならず人を海中に引き入れて、精血をすひてのち、形をかならずかへすなり。いかなるもののさとりしめけるやらん。かの亡屍を棺に入れず、葬らず、ただ板のうへにのせ、草庵をむすびて取り入れ、かならずしも香花をそなへずおけば、この屍のくつるあひだに、かの人をとりしかはたろうの身体爛壊して、おのづから斃る。しからざればかはたろう人間の手にとらふべきものにあらず。いはんや、いづれのとりしといふ事をもしりがたし、いと奇術なりとぞ。かはたろう身のらんゑする間かの死がいをおくやのほとりを、悲しみなきめぐる。人その形を見ず。ただ声を聞くとなん。もしあやまちて香花をそなへしむれば、かはたろうかの香花をとりかへり食せば、その身らんゑせずといへり。棺に入れ葬れば、これも斃るゝにおよばずとぞ。およそかはたろう身をかくす術をえて、死せざれば見る事あたはず。多力にして姦悪の水獣なりといへり。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 01:01:47
『笈埃随筆』(安永~天明)
「右の佐伯の曰く、豊前の国中津の府と云ふ城医の家に書生たりし時、その家の次男、或時川岸を通りけるに、水虎の水上に出て遊び居たり。思ふに此ものを得んは獺肝などの及ぶべきかはとて、頓て手ごろなる石をひとつ提げ、何気なく彼の出る所をばねらひ済して打落しけるに、何かはもつてたまるべき。キャツト叫び沈みけり。さては中りぬる事と見廻すに、水中動揺して水逆巻き、恐ろしかりしかば逃げて帰りぬ。それよりかのもの取付きて物狂はしくなり、家根にかけり木にのぼりて、種々と狂ひて手に合わず。細引もて括り置きけれども、すぐに切てければ、鉄の輪を首に入れて、鉄鎖をもて牛部屋の柱にしばり付けたり。既に一月余になりしかば、鉄輪にて首筋も裂け破れたりしが、さらに退くべき毛色なし。彼れ是れ五十日ばかりなり。或時近き寺に大般若有りて、その札を家毎に受けたり。この家にも受け来り、先づかのものに戴かせければ、身震ひして即時に除きたり。誠に不思議の奇特、尊き事いふばかりなし。始めてこの経広大の功徳を目前に見たりしと語りける。
予もまたまのあたり知りたりしは、日向下北方村の常右衛門といふ人、十二三歳の頃、川に遊びて河童に引込まれしと、連れの子供走り来て親に告げたり。をりふし神武の宮の社人何の河内と云ふ人、その座に聞きて、頓てその川に走り行き、裸になりて脇差を口にくはへて、かの空洞に飛入り、水底に暫く有て、其子を引出し来り、水を吐かせ薬を与へ、やうやうにして常に返り、今に存命なり。然るに翌日その空洞の所、忽ち浅瀬となりにけり。所々の川には必ず空洞あり。深さを知らぬほどなり。そこには必ず鯉鮒も夥しく集れども、捕る事を恐る。また卒爾に石などを打込む事を禁ずるなり。彼辺の川渡らんとするものは、河童の来りたる、往きたるをよく知るなり。また曰く、このものは誠に神変なるものなり。生きたるに逢えば必ず病む。知らずといへども身の毛立つなり。たとへ石鉄砲などに不意に打当る事あれど、その死骸を見たるものなし。常にその類を同して行き来り、または一所に住むものと見ゆ。死せざる事もあるまじきに、つひに人の手に渡らざると覚えたりと語る。かく恐ろしきものなれどまたそれを圧すものあり。猿を見れば自ら動く事能はず。猿もまたそのものありと見れば必ず捕へんとす。故に猿引川を渡る時は、是非に猿の顔を包むといへり。日薩の間にては、水神と号して誠に恐る。田畑の実入りたる時刈取るに、初めに一かまばかり除け置き、これを水神に奉るといふ。彼辺は水へんばかりにあらず。夜は田畑にも出るなり。土人ヒヤウズエとも云ふ。これは菅神の御詠歌なるよし、この歌を吟じてあれば、その障りなしといふ。
 兵揃に川立せしを忘れなよ川立男われも菅はら
肥前諫早兵揃村に鎮座ある天満宮の社家に申し伝へたり。さて此社を守る人に渋江久太夫といふ人あり。都て水の符を出す故に、もし川童の取付きたるなれば、この人に頼みて退くるなり。こゝに一奇事有り。然れども我慥かにその時其所にあらず。後年聞伝へたるなれば、聊か附会の疑心なきにもあらず。かの飛騨山の天狗、桶の輪にはじかれし類ひにも近ければ、云はずしてやまん事勝らんとおもへども、またよき理の一条あり。見ん人これを以てその余の虚説とする事なかれ。只この一事、気機の発動は鬼神も識得せず、一念の心頭に芽すは、我も不知の理をとりて、無念無想の当体を悟入すべし。同州宮崎花が嶋の人語りしは、先年佐土原の家中何某、常々殺生を好みて、鳥獣を打ち歩きて山野を家とせり。或日例の鳥銃を携へて、水鳥を心がけ山間の池に行く。坂を上りて池を見れば、鳥多く見ゆ。得たりと心によろこび、矢頃よき所に下り居て、既にねらひをかけるに、かの水神水上に出て、余念なく人ありとも知らず、戯れ遊び居たり。さては折あしき事哉と、にがにがしくおもひ、頓て鉄砲をもり待ち居たり。きせるをくはへながら筒先を当て、この矢先ならんには、たとひ悪鬼邪神、もしくは竜虎の猛きとても、何かははづすべきと独り念じて居たりしが、いやいやよしなき事なりと取直すに、如何はしけん、計らずもふつと引がねに障るや否や、どうと響きてねらひはづれず。かのもの胴腹へ中りしと見えて、はつと火煙立ちのぼる。こは叶はじと打捨て、飛ぶが如くに立帰りけり。帰宅の後もさして異変も無かりしけば、心に秘して人にも語らず。また彼地へも年を越しても行かざりけり。かくて何の障りもなく、或時友達打寄りて酒呑み遊びて、たがひに何かの物語りに、この人思はずこの事を語り出し、世にはおそろしき事もあるものかな、それにより二三年一向彼所へ至らず、さらに打つべき心もなかりけるに、不運なる水神かな、自然と引がねにさはり、放れ出たるには我も驚きたりと語るや否、ウンとのつけに反り返り、また起直りて云ふやう、さてさて今日唯今はいかなるものの所為なる事を知らざりしに、この者の仕業と聞きて、その仇を報ずるなりと罵りかゝり、終に病となりて死したりと云ふ。誠にこの事は論ぜずして口外にせざれば人も知らず、況んや鬼においてをや。かの豆を握つて鬼に問ふに、問ふ人その数を知れば鬼も知り、無心に摑んで人その数を知らざれば、鬼もまたその数を知らずといふも、同日の談なり。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 01:01:19
『三養雑記』(1842年刊)
「水虎、俗に河太郎、またかつぱといふ。江戸にては川水に浴する童などの、時として、かのかつぱにひかるゝことありし、などいふを聞けど、いと稀れにて、そのかつぱといふものを、確かに見たるものなし。西国の所によりては、水辺などにて、常に見ることありとぞ。怪をなすも狐狸とは、おのづからことなり。正しくきける、ひとつふたつをいはば、畠の茄子に一つごとに、歯がた三四枚づつ残らずつけたりしことありと、その畠のぬしよりきゝたり。仇をなすこと、執念ことさらにふかくして、筑紫がたにての仇を、その人江戸にきたりても、猶怪のありしことなどもきけり。かのかつぱの写真とて見しは、背腹ともに鼈の甲の如きものありて、手足首のやうす、鼈にいとよく似たり。世人のスッポンの年経たるもののなてるといふもうべなり。越後国蛎崎のほとりにてのこととかや。ある夏のころ、農家のわらはべ、家の内にあそび居けるに、友だちの童きたり、いざ河辺に行きて水あみして遊ばんと、いざなひ行きしに、かの誘ひに来りし童の親の、ほどなくいり来りしかば、家あるじの云ふ、今すこしまへ、そのかたの子息の遊び来れりといひければ、いやとよ、せがれは風のこゝちにて、今朝より家に臥し居りぬ。いと怪しきこととぞいひあへりとぞ。後にきけば、かつぱの童に化けて、いざなひ出したるなりといへり。また上総国にも、ある家の童を、その友の童が来りて、川辺にあそばんとて、呼び出しにきたりしかば、その母のいふ、川辺に行かば、まじなひに仏壇にそなへし飯をくひて行けといひつけければ、友のわらはべ、そんならいやだといひつゝはしり逃げ行きぬとぞ。これもかつぱにてやあらん。先祖まつりは厚くすべきことといへるとかや。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 01:00:54
『半日閑話』(明和~文政)
「九州にては余国と違つて河童多し。これまた人の妨げをすといへり。その子細は賤しき漁夫などの妻と密通し、その外存外なるいやな事多しと云ふ。先年寛永の頃、肥前天草、嶋原、有馬、この三ヶ所の百姓一揆の時、悉く御退治、事終りて有馬左衛門佐直純の帰陣の時、かの八左衛門(失念苗字)と云ふ者、名に聞えし有馬の蓮池を一見せしめてその辺を歩行しければ、河童一疋前後も知らず昼寝して居ける処へ行きかゝり、八左衛門立寄りて抜打に致候得ば、手答へして刀にものり付く様に候へども、その形見えざりけり。暫くその辺を伺ひけれども、彼が死骸なかりしかば、暫く有りて何やらん池中へ踊入る音しけり。されど猶も死骸見えざる程に斜日に及びければ、八左衛門は立帰り、またその翌日主人帰陣に付て供仕り、日州県の居城へ帰る。かくて寛永十五年の二月より、同十七年の秋九月十四日末の下刻に、かの河童来りて八左衛門に向つて申す様は、三年以前に肥前の有馬にて疵漸く頃日平癒す。依てその遺恨をとげん為、はるばると参りけり。急ぎ外へ出給へ、勝負を決せんと罵る。かゝりければ八左衛門莞爾と笑ひ、遠波を凌ぎよくこそ来りたりとて、刀を引提げ庭上に出立ちて、その身壱人にて切て懸り、請けつ開きつなどする様子を見れば、疑ふ所もなき乱心なりと、母や女房心得て肝を冷し、八左衛門が裏合は百石小路と云ひて、小身の面々の屋敷どもにて有りければ、人を遣はし親類ども並に傍輩を呼び寄せて、かの為体を見せければ、誠に狂人に似たれども、さしてまたしとけなき事もなかりけり。それはかの河童が姿は八左衛門が目には見えけれども、余人の目には懸らずゆゑ、右の仕合せなり。その故に助太刀と云ふ事もなかりしなり。相互に戦ひ疲れさらば今晩は合引にして、また明日の事とて、河童は帰りぬ八左衛門も刀を納めて内へ入りぬ。その後人々打寄りて唯今の子細を尋ねければ、三年以前有馬にてケ様ケ様の事ども有りつる由を語りければ、何れも手を打て、さてもさてもその義を今迄忘れず、是非とも報いをせんと、年月彼が思ひにせし細志こそやさしけれ、してまた彼が持ちたるその道具はいかなる物ぞと尋ねければ、かのものは梅のすあひの様なる物の、三尺ばかりも有るべきを持て戦ひけるが、そのすあひ人に当り、いか様なる痛みのあるやらんも更に計り難し、第一彼かゝるわざをつまのきいたる事、中々に言語に絶えたると語りけり。さて右の河童八つ頃に来たて、酉の刻迄続きて三時ばかりはげみ合ひしかも、双方牛角の手きゝにて勝負はなかりけり。その事を主人なりける有馬左衛門佐直純聞き玉ひ、仰せには左様の義前代未聞なり、然らば八左衛門が所に行きて始終様子を見物せんと仰せ出され、則ち翌日彼が宅へ御来臨有りて、牀机に腰掛けられ、召連れられたる諸士へ御申付には、その河童譬へ形は見えずとも、彼来て八左衛門と相戦ふと見え候はば、その辺を幾重にも取巻て逃げ得ぬやうに仕るべしと仰せ付けられ候へば、我も我もと心掛け、今か今かと待ち居けれども、かゝる待まうけをや憚りけん、その日は河童参らざりけり。依て直純も少々御不興顔にて御帰宅ありしとなり。かく有りてその夜計り、かの河童八左衛門が枕上に立て云ふ様は、年来の遺恨を是非晴さんと思ひ、遥々これ迄参りつれども、今昼程に其方主君此処へ入らせられ、雌雄を御一覧あるべしとの義なれば、最早我が存分は遂げ難し、その故に明日は有馬へ帰るなり、この由を断らん為、唯今これ迄来りたりしと云ひ捨て立去りぬ。その義も後に八左衛門が語りけるとなん。この物語りは豊後の永石其孝の話しなり。誠に人間さへ意趣を含み、腰ぬけの振舞ならば寝首かく者之有、まして河童は畜生なれども、その敵の閨の中迄忍び入りけれども、三年以来念じける本望を遂げずして空しく立帰る。かれらが用ひる法令の有るにこそとおもへばおもへばいと恥かし。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 01:00:21
『裏見寒話』(宝暦二年序)
「下条村に切疵の薬を売る農家あり。その父たる者は貧窮にて、日々疲馬に薪を付けて府下に売る。ある時師走の末に、その日も薪を鬻ぎて、正月の営みをなして帰る。釜無川の河原に来れば、霙交りの風寒く、日さへ漸暮掛れば、少しも早くと道を急ぐに、馬進まずして、騒上騒上て一歩も動かざれば、打叩きけれど、何分歩行けしきも非ざれば、けしからぬ事と思ひ、後へ回りて見るに、十一二なる子が馬の尾にすがりて居るを、危なし危なし、今に蹴られんと、早く退け退けといへども、聞かずして尾筒を握て放さざる故、馬士大いに怒り山刀を以て、其処を退かずばこれなりと、切付る真似をせしかば、忽ちその子も見えずなり、そして馬を引くに常の如し。宿へ帰りて馬を洗はんとするに、猿の腕の如きが切れて、尾房を摑んで有りしかば、偖は先刻の小児は妖物にこそと、その腕を取らんとするに、曾て放れねば、この腕ありと馬の痛みになるべからずと、厩へ引込み、己れも休みぬ。然るに鶏鳴の頃、外に子供の声にて、頻りに主人を呼ぶ。斯く深更に及び、小児のくる様なしと思ひながら、戸を開けば、十一二の小児と見えて、人間とも見えざるが、愁然として立居しが、平伏して申しけるは、我は昨夕釜無河原にて御馬に邪魔せしものなり。その時に切られたる片腕を御返し玉はれかし、我かの河原に栖む河童にて有りける、馬の尾を一節持つときは、色々の妖術を得る故に、御馬に付て候なりといひける。男笑うて云ふ、決してその腕を返す事叶ふまじ、己が妖をなさん為に、人の馬を悩まし不届至極なりといへば、河童怒りて云ふやう、御辺その腕を返さずんば忽ち祟りをなし、子々孫々を取殺さんと云ふ。男大いに怒り、いやしくも人間と生れ、畜類の祟りを恐れ、空しく存念を翻さんや、己れ殺して呉れんと、棒を以て追ふ。河童泣いていふ。我は水中の獣類、大丈夫の心を知らず、妄信を出して、君の怒りを発す、願くば人倫の仁慈を以て、獣類御助けと思召し、腕を御返し玉はれかし、その報恩には毎朝鮮魚を献じて、無比の厚恩を謝し奉らん。男聞入れず。水畜の音問を得て志をひるがへさんやと、已に戸さゝんとしける。その妻諫めていふ。大人の志至極道理なりといへども、願くば彼の腕を返し玉へ、かの腕、家にとどめて何の益もあるまじ、返せば一畜を助くるの仁恵に候と。男河童に云ふ。この腕を返すといふとも、切られたる腕、再度接げべき理なし、何の為に取返すや。河童云ふ。我腕を接ぐに妙薬あり、人間に於ても大いに益ありと。男云ふ。しからば腕を返さん、その漢方を伝へよと。河童悦んで漢方と腕を取替へて帰る。男此方を考ふるに、その薬種、田地に生る草なり・翌朝夫婦起きて見れば、水桶の中に色々の鮮魚夥しくあり。河童が謝礼と見えたり。男のいふ。漢方にて大いに足れり、実に獣類の食を分けて我食せんとや。かの魚を悉く河に放し、その後薬を調合して金瘡に用ひるに、即効ある事神の如し。今下条切疵薬と国中に名高し。青銅廿四文に売る。この売薬を以て程なく、この家富裕となれりとぞ。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 00:59:56
『真佐喜のかつら』(天保~嘉永)
「伊豆国国方郡雲が根村に河童薬と云ふあり。打身くじきに用い甚だ妙なり。この来由を問ふに、いつの頃にやありけむ、小児ども打寄り相撲とりて力をくらぶ。外より見馴れざる小児来りて交り遊ぶ。村中の小児、このものに勝つものひとりもなし。しかる処、一人の小児出で取組み、しばし揉合ひしが、見なれざる小児を投出しぬ。その時彼のもの云ふ。汝仏のめしを喰ひしかと問ふに、さなりと答ふ。しからば翌日は喰はずに来れよ、我かならず勝つべしと云ふ。勝ちたる小児、子心に怪しくおもひ、親にこの事をかたる。父思ふ事やありけん、翌日子に随い行き、かの力強の小児を大勢にていましむ。その者云ふ。我全く人間にあらず、田方川に住める者なりと云ふ。さらば河童なるべしと、大勢より殺さんとす。その時ひとりの老人来りて、銭壱貫文を以て河童を買ひとり、田方川へはなつ。その夜河童来りて助命の事を謝す。その時薬法を伝へしかば、製し試るに必ず験あれば、人皆きゝ伝へて乞ふ。跡は価をさだめ売りけるとなん。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 00:59:31
『卯花園漫録』(年不詳、但し作者は文化・文政頃の人)
「河童は大なる猿のごとく、頭の上少し窪みて、水を戴て専ら力ありて、人と争ふ事を好み、また賤民の家に入りて、婦女と姦淫する事あり。多く西国九州にあり。唐土にも似たる事あり。『淮南子』に載する所の魍魎の類ひ、また『酉陽雑俎』に云ふ〈犭段〉〈犭國〉と云ふ者あり。形ち猴のごとく、長毛七尺ばかり、馬化して成るといへり。人の妻を窃むとあり。また江鄰幾が『雑志』に云ふ。宋の徐積廬川の辺にて取得たる小児も、この河童の類なるべし。また『本草』の山〈犭喿〉の条下に、旱母といふものあり。その丈け二三尺ばかり、髁にて目は頭の上に有て、往走る事風のごとく速かなり。よく人の家に入りて淫乱を為し、火を放ちて物を盗み、人に害ある事甚だし。旱母顕るゝ時は必ず旱す。これ和俗に云ふ河童なるべし。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 00:59:06
『譚海』(安永~寛政年間に執筆)
「川太郎といふ水獣、婦人に淫する事を好む。九州にてその害を蒙る事時々絶えず。中川家の領地は豊後国岡といふ所なり。その地の川太郎、処女に淫する事時々なり。その家の娘いつとなく煩ひつゝ、健忘のやうになり臥牀につく。これは川太郎に付かれたり。力なしとて親族かへりみず。川太郎に付かるゝ時は誠に医療術なし。死に至る事なりといへり。川太郎時々女の所へ来る。人の目には見えざれども、病人言語嘻笑する体にてしらるゝなり。親子列席にては甚だ尾籠いふべからざるものなりといへり。かやうなる事、家ごとに有る時は、川太郎を駆る事あり。その法蚯蚓を日にほしかためて燈心になし、油をそゝぎ燈を点じ、その下に婦人を坐せしめ置けば、川太郎極めてかたちをあらはし出で来るなり。それを伺ひ数人あつまり、川太郎を打殺しかゝる。斯の如くしてその害少しと云ふ。川太郎など夜陰水辺にて相撲をとる事は、常の事なりといへり。」
「安永中江戸深川入船町にて、ある男水をあびたるに、川太郎その人えおとらんとせしを、この男剛力なるものにて、川太郎を取すくめ陸へ引上げ、三十三間堂の前にて打殺さんとせしを、人々詫言して川太郎証文を出し、ゆるしやりたり。已来この辺にて都て川太郎人をとるまじき由、その証文は川太郎の手判を墨にておしたるものなりとぞ。」
「佐竹家の医者に神保荷月と云ふ外科あり。治方神の如し。太守の寵愛し玉ふ鷹、鶴に脚ををられたるをつぎ癒して、用をなす事もとの如し。江戸にて用人、馬より落ちて足をうちをり、骨の折れたる所、うちちがひに外へまがり出たりしを、在所へ下り荷月が療治を得てものごとく癒え、二度江戸に登りて、馬上にて往来したるをみたり。大嶋佐仲と云ふ用人なり。その外うちみくじきをなほす事、いえずといふ事なし。家に伝方の秘書一巻あり。川太郎伝へたるものとて、かなにて書きたるものなり。よめかぬる所もありと、みたる人のいへり。この神保氏先祖厠へ行きたるに、尻をなづるものあり。その手をとらへて切りとりたるに、猿の手の如きものなり。その夜より手を取りに来りて愁ふる事やまず。子細を問ひければ川太郎なるよし。手を返して給はらば継ぎ侍らんといひしかば、その方をしへたらんには返しやるべしといひしかば、則ち伝受せし方書なりとぞ。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 00:58:34
『続蓬窻夜話』上(享保11年跋)
「六月廿三日は紀州弱山湊の蛭児祭なり。昔しはこの日必ず牛の売買ありて、牛ども多く湊の浜辺に集りける故、世の人皆湊の牛祭とも云ひしが、近年はいつとなく牛も来らずなりたり。この祭の時節は酷暑の砌なれば、河辺にて水浴する者多くて、動もすればこの日の前後溺れて命を失ふ者多し。享保丙午六月廿二日の晩方、嶋田氏何某の子、年十八なるが、暑気を凌がんとて近所の子供四五人を引つれ、小野町の浜辺に出て大船の掛りて在る辺の小船を彼方此方と打渡りて涼み居けるが、何とかしけん、船より船へ移るとて、蹈みはづして海へ落ちけり。所しも深かりければ、敢なく沈み入りけるほどに、従ひ行きたる子供、やれやれといへども、何とすべきやうもなく居たる内に、父母の宿近ければ、人々追ひ追ひ蒐来り、水練を入れて死骸を被き上げ、先ず浜にて色々術を尽しけれども、終にその験なし。力無くて戸板に載せて家に帰り猶医者を呼び聚聚て療治しけれども、その甲斐なく遂に空しくなれり。これより前に、この子の沈みたつあたりに有りける大船の船頭の語りけるは、頃日浜にて子供の水を浴び居けるを、何心なく見居たるに、その中に小坊主の一人有りけるをつくづくと見れば、疑ひもなく但馬にて見たりし小坊主なり、彼は人間には非ず、正しく河童なるが、何としてかこの浦へは来りけん、これをば知らで同じやうに水浴する子共の、命を取られんこそ不便なれと思ひ、急ぎ湊の浜にり、子共の水浴することを制し玉へ、我れ但馬の河童のこの浦へ来るを、たしかに見付けたりと云ひければ、子を持ちたる者ども大きに驚き、やがて浜辺に走り出て、子共を皆水より呼上げける。さて何とて但馬より来りし事を知れりやと問へば、船頭が云ひけるは、我れ但馬の浦に船を掛けて居し時、この小坊主切々船へ来りて物を乞ひけるが、その物言ひ人と違ひて、始めは聞ゆるやうにて跡はなし、たしかに河童と見たるゆゑ、兎角だましすかして日を経たり、彼はその心飽までかしこき者にて、その心を先に覚り、譬へば今度来る時この橈にて打つべしと思ふに、早その心を知て傍へ寄らず、その方はその橈にて我れを打たんと思はるゝやと云ふ。明日は船を出すべしと心に思ひ居れば、早その心を知りて明日は定めて出船ならんと云ふ。とかく人の心を先きに知る事、鏡の如し。これを知りながら悪しくもてなせば、必ず仇をなしてその害多し、とかくだますには如かじと思ひ、色々とすかし置きたりしが、今またこの浦へ見え来れり、これを思へば河童はなしと思ひて必ず油断すべからずと語りける。その後間もなく嶋田氏の子、廿二日の晩溺れて死しけるが、親の家は小野町なるゆゑ、間もなく被き上げけれども、臓腑腸胃を悉く引出して、腹中空になりて有りけるよし、偖はこの船頭が語りたる河童の業ならんかと、人々疑ひあやしみける。その後もこの年は処々にて溺死する者多かりければ、皆この河童の業ならんかと、あやしみ疑ふ人多かりし。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 00:57:45
『さへづり草 松の落葉』(天保年間~文久三年の執筆。但し刊行は1910年)
「水無月やうか芝口橋のたもとなる一商家にて珍物を見る。その顔かたち、猿を陰乾めたる物に似て、丈三尺ばかりもやあらむ。ことに珍奇といふべきは、その首二つ並びたり。そこの主人につきて聞けるに、こは細川侯の藩士内田某より預かり置けるものにて、水虎(かっぱ)を陰乾にしてるなりといへり。見る人多く、ことに箱中銅鋼の中に有りて、したしく見ることを得ざれば、その真偽はしるよしなけれど、このもの九州にはことに多くて、かつ坂本氏鑒定といへる水虎十二品の図説の中、寛永中豊後国肥田にて獲るといへるもの大いに同じ。また豊筑の産、人の形また猴に似たりといへるにもよくあひて、歯は左右に二枚ありといへるに違はず。さて両頭はいよいよめづらし。」
「右の水虎(かっぱ)を蔵せる人の仕ふる主の領し給ふ肥後国熊本にては、土俗がハツパとよべるとぞ、按るにガハツパ、カツパ共に川ワツパの中略にして正しくいはば川童(かわわらわ)の訛なるべし。又川太郎とよべるはすべて物の魁なるを太郎とよべるに、我俗のつねにて水属の物いと多かる中、此物は一種の怪物にして其妖他物に比すべきなければ、川太郎の名はおはしゝならむ。又因幡の土俗川小坊主といひ、伊勢の白子の土人河原小僧といへるも又川太郎と同意なり。肥州佐賀にて川僧といへるは小もじを略したるにてともに同意也。又紀伊土佐長門萩などにてエンカウとよべるは猿に似たる由の名にて、出羽庄内にてカハダロウ播磨姫路にてガアタロウ、土佐にて又カダロウなどよべるは、ともに川太郎の訛にて近江彦根にてガハタ、越後柴田にてカハダなどいへるは又川太郎の下略也。越中にてガハラ薩摩にてガハロなどよべるも、又川太郎の訛略なり。山城摂津及阿波又筑州福岡にて川太郎とよべるを正しとすべし。又出羽久保田にてカツパア、肥前島原にてガハツハ、日向及安藝廣島又甲斐等にてカハツハなどいへるは、ともにカツハと同じく川童の訛也。又備前岡山作州津山にてゴンゴウといへるは、此もの性角力を好むと聞れば金剛といへるよしなるべし。又能登にてミヅシといへるは、尾州にてヌシといへると同意にて水主の義にや。又豊州府内にて川ノトノといへるは、狐を夜のトノといへると同意にて、かれが妖をおそれていへる名にもあらむ。日向薩摩などにて一名を水神といへるも又おそれ崇む意なるべし。又越中富山にてガメといへるは和名抄に亀加波加米と見えたる加波の上略なるべし。又松前にて一名コマヒキとよべるは、此ものその妖をもて牛馬などたぶらかし、水中に引入る
などのことありておへる名にもやあらんむ。さて紅毛言にトロンベイタとよべるのみ、今其名義考ることを不得。さて漢土にて水虎と書るも水にての虎と云る義にて、こゝの川太郎とその義よくあへり。」
「今俗胡瓜をくらふのはじめ、姓名などかいつけて川水に投ず。こは河伯(かっぱ)におもねるの意なり。実に水虎は黄瓜を好めるにや。さればまた世俗胡瓜にかれが名をおはして、またカツパとよべるもをかし。なほまた祇園の神に献ることなどもありて、かつぱ天王などもいへり。たとき御神にいやしきかれが名をおはしまゐらず。俗のうつりことば、今にはじめぬことにはあれど、かしこくもいと甚しといふべし。」
「日薩の土人又水虎の一名をヒヤウスヘといふ。こは土俗菅神の御詠也といひ傅ふる歌に
 ヒヤウスヘに約束せしをわするなよ川立男氏も菅原(坂本氏説には初五文字イニシヘニとあり)
ヒヤウスヘは此歌によりておこれる一名ならむ。さて肥前国諫早に兵揃村あり。こゝに天満宮の社ありてそを守る神人渋江久太夫といへる者、水虎の災を除符を出すよし笈挨随筆に見えたり。雀庵按るに氏は菅原の御詠といへるはいとおぼつかなし、おそらくは渋江家の代詠などにもあらむ。しかはいへればこの歌によりて水虎の一名もおこりたれば、いと古き義詠なるべし。又按るにヒヤウスヘは兵揃にてソロのつづめソなるをスに通はしてヒヤウスヘといへるなるべし。」
「同笈挨随筆に此もの奇談三四条の事実を記して(三養雑記にも水虎の奇話一二条載たり)「(上略)斯恐ろしきものなれど、猿を見れば動く事あたはず。猿も又其もの有と見れば必ず捕んとす。故に猿引川を渡るに必ず猿の面を包む」とあり、これ日向辺の話也。これらにても九州には此もの多きをおもふべし。かくてはかのもの己が名をエンコウとよばるゝをばいまはしとやおもふべからん。又難冠石(雄黄ナリ)をもてれば水虎の害を避くといへり、水虎のみならず雄黄は妖物のおそるゝもの也とぞ。又三養雑記に記す一話によりておもふに、河伯は莽草をもいめるにやあらむ。又肥前の五島にては水神とよびてことに崇め重んずるよし、唐土に河伯といへるも又同意也(カハクハカハノカミ)。」
「山崎美成云「水虎の写真とて見しは、背腹ともに鼈の甲の如きものありて、手足首のやうす、鼈にいとよく似たり。世人のスッポンの年経たるもののなてるといふもうべ也」といへるごとく、さきの日たる陰乾のものを諸書図説によりておもふに、実にかはがめの年経たるが変化するところのものなるべし。越中富山の方言にガメといへるも大によしあり。」
「水虎の妖不思議なる諸書にその事実を記し九州には年としてその怪あらざることなしと聞り。実に一種の水怪と云べし。さて又俗傳に此もの人の脱肛を好みとるといへるは普通のこと也。又脱肛を尻子玉などいへるは、かの龍宮へ献るといへる童謡より出たるに似ていとをかし。按るに此ことはふと古くよりいひ出しゝ事にて、今に干あへぬ水虎がぬれ衣なるべし。そは一説に水辺一種の奇蛇あり。長さ七八寸より二尺余に至る。色白く腹うす青く人の肛門より入て臓腑をくらひ歯をくだきて口より出つといへり。此奇蛇北国にはことに多しといへり。越後にて川ヘビ、出羽にてトンヘビなどいへるものこれ也とぞ(此蛇人の腹中に有て久しく死する事なしと)。現に此蛇の為に死せしこと坂本氏説にもいひ、北越奇談にも載たり。されば此奇蛇の害によりて水中に死せる者を、その肛門のつねならざるにつきて、みな水虎のわざとはいひならはしたるものならんか。又水死のものやゝ久しく水底にあれば肛門開くもの也といへり。よりてあやまちて溺死したる者をもなほ水虎に罪をおはするもあるなるべし。又女子の陰門に蛇の入しといへる語昔よりあるも又かの水蛇の事なるべし。かゝれば田舎の婦女たりともかならず水辺に尿することなかれ。」
「本朝俗諺志(巻二三条)に「肥後国熊本八代の辺に川童(かはらう)多し。然れども所の人に害をなさずと也。加藤清正常国の主たる時川狩有しに、兒小一人川童の為に水中に入る。清正大に怒り我領地に有て我家人の命を絶事言語道断也。此上は国中の川童を狩りて一つも残さず打殺すべし。先他所へ退さるやうにと数多の貴僧高僧を集て是を封せしめ、偖川上よりかれに毒なる薬を流し数千の石を焼て淵へ投入べし。又猿を多く集むべしとの下知也。川童に湯を浴すれば大に力を落すもの也。石を焼て入るは淵を湧すの理なり。猿は川童を見ると力を増し、川童は猿にあふと立すくみに成るもの也。強勢の清正が下知を川童九千の頭九千坊といへるが聞て大に悲しみ、封られし衆僧につきて嘆ければ、再三願ひやうやうに免されけり。因て永く所の人に害なさゝるの誓約かたくしてけり、それより以来災ひなし折として旅人は難ありと云り」とあり、さきの日見たる両頭の川童も此属にやと因にこゝに写す。又諸国里人談(二巻)に「河童歌肥前国諫早の辺に河童多く有て人をとる。
 ひたうすへに川立ちせしを忘れなよ川たち男我も菅原
此歌を書て海河に流せば害をなすと也、此村に天満宮の社あり。よつて菅原と云。又長崎近きに渋江文太夫と云もの河童を避る符を出す云々、或時長崎の藩士海上に石を投て、其遠近をあらそひ賄(かけもの)して遊ふ事はやる。一夜渋江が軒に来りて曰、此ほど我栖(すみか)に日毎石を投ておどろかす。是事とゝまらすんは災をなすへしと、渋江驚きこれを示す人皆奇也とす」とあり、ヒヤウスへの歌名高きをしるべし。され上に記しゝ
とは大同小異なり、又渋江氏左の文にては菅神の神人にてはなきがごとく聞ゆこは誤り也。又上に久太夫といへるは文太夫の誤りなるべし。いかにかといふに笈挨随筆は写本にて伝ふれば、筆者の手を経てあやまちしにて、里人談は印本なればこれを正しとすべし。さて又石投の奇談は渋江氏の例の奇を人に示すにてや有けむかし。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 00:57:10
『望海毎談』(年不詳)
「刀根川にねここといへる河伯(かっぱ)有り。年々にその居る所替る。所の者どもその居替りて居る所を知る。その居所にては渦あり。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 00:56:51
『怪談老の杖』(18世紀後半頃)
「小幡一学といふ浪人ありける。上総之介の末葉なりと聞きしが、さもあるべし。人柄よく小学文などありて、武術も彼れ是れ流儀極めし男なり。若きとき小川町辺に食客のやうにてありし頃、桜田へ用事ありて行きけるが、日くれて麹町一丁目の御堀端を帰りぬ。雨つよく降りければ、傘をさし腕まくりして、小急ぎに急ぎをりけるが、これも十ばかりなりとみゆる小童の、笠もきず先へ立ち行くを不便におもひて、わらはにこの笠の中へはひりて行くべしと呼びかけけれど、恥かしくや思ひけん、あいさつもせず、くしくしと泣く様にて行けば、いとどふびんにて、後より傘さしかけ、我が脇の方へ引つけてあゆみながら、小僧はいづ方へ使にゆきしや、さぞ困るべし、いくつになるぞなど、懇ろにいひけれどもいらへせず、やゝもすれば傘をはづれて濡るゝ様なるを、さてばかなる小僧なり、ぬるゝ程に傘の内へ入れ入れと云ひければまた入る。とかくして堀のはたへ行きぬると、おぼゆる様にてさしかけつゝ、この傘の柄をとらへて行くべし、さなくては濡るゝものぞなど、我子をいたはる様に云ひけるが、堀のはたにてかのわらは、よわ腰を両手にてしかと取り、無二無三に堀の中へ引こまんとしけるにぞ、さては妖怪めござんとなれ、おのれに引きこまれてたまるものかと、金剛力にて引あひけれど、かのわつぱ力まさりしにや、どてを下りに引きゆくに、むかう下りにて足だまりなければ、すでに堀ぎはの石がけのきはまで引立てられしを、南無三宝、河童の食になる事かと悲しくて、心中に氏神を念じて、力を出してつき倒しければ、傘ともに水の中へ沈みぬ。命からがらはひ上りてけれど、腰たゝぬ程なりければ、一丁目の方へ戻り、駕籠にのりて屋敷へ帰りぬ。それよりこりはてて、その身は勿論人までも、かの御堀ばたを通る事なけれと制しける。これぞ世にいふ水虎(かっぱ)なるべし。心得すべき事なりと聞けり。

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 00:56:18
『一話一言』(1775~1822年にかけて執筆)
「享和辛酉六年朔日、水戸浦より上り候河童、丈三尺五寸余、重さ拾弐貫目之有候。殊の外形より重く御座候。海中にて赤子の鳴き声夥しくいたし候間、猟師ども船にて乗廻し候へば、海の底に御座候故、網を下し申候へば、いろいろの声仕り候。それより刺し網を引廻し候へば、鰯網の内へ拾四五疋入り候て、おどり出おどり出逃げ申候、船頭ども棒かひなどにて打ち候へば、ねばり付き一向にかひなどきゝ申さず候、そのうち壱匹船の上へ飛び込み候故、とまなど押かけその上よりたゝき殺し申候。その節までやはり赤子の鳴声いたし申候。河童の鳴声は赤子の鳴声同様に御座候。打殺し候節屁をこき申候。誠に堪へがたきにほひにて、船頭など後に煩ひ申候。打候棒かひなど、青くさき匂ひいまだ去り申さず候。尻の穴三ツ有之候。惣体骨なき様に相見え申候。屁の音はいたさず、すつすつとばかり申候。打ち候へば首は胴の中へ八分程入り申候。胸かた張出しせむしのごとくに御座候。死候て首引込み申さず候。当地にて度度捕候へども、この度上り候程大きなる重きは只今迄上り申さず候。珍しく候間進じ候以上。六月五日   東浜権平次
  浦山金平様」
「天明五年乙巳□月の頃、麹町飴屋十兵衛なるもの、つねづね心正直なるものなりしが、夕方にある童子の来りてたはぶれ遊ぶをあはれみ飴をあたふ。それよりして夕つかたごとに来る。怪しみて跡をつけゆくに、御堀の内にいりぬ。さては河童なるべしと恐れ思ひけるに、ある日来りて一の銭を与ふ。その後来らず。その銭今番町能勢又十郎殿家に蔵む。その銭のかたをおしたるなりとて、浅草馬道にすめる佐々木丹蔵篁墩が贈れるを、こゝにおし置きぬ。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 00:55:50
『蕉斎筆記』(1848年序)
「徳山の連歌の宗匠飯田冕之助範正と同道しに厳嶋へ遊び、船中色々咄しけるに、豊後・豊前辺にしてはカハ太郎(江戸にてはカッパと云ふ。俗に猿猴といへり)多くして、川々に栖み来れり。畠などへ揚り作物の妨げをし、茄子・きうり・さゝげ其外の作物にあたり、百姓も難儀する事有り。これを祭るとて一ヶ村づつ相撲の興行をし、また笠著連歌をするなり。相撲連歌を好みけるもをかし。〈中略〉カハ太郎牛馬を取る事多し。カハ太郎に見入られたるは、ふくれ腫れて死けりとかや。子供なども水中に引込む事有り。誠に尻の穴より臓腑抜けるとかや。昔吉広カハ太郎と相撲を取たる事有り。夜中ながら六尺余りの背になり、吉広と取りけるが骸内ぬめぬめとして至て気味わるきものなり。負けてやりければ甚だ悦び水中へ飛入りぬ。また人間勝ちぬれば大いに腹を立て、色々の返報しけるとなり。漁人の網に入りぬれば、至て難儀しぬ。後々迄家に祟りをなさず、守護いたすべしと、得と申含めて放しけるよし。形ち小さき猿のごとし。手の長きものにもあらず。一疋にても殺しぬれば、数千疋集り段々と災ひをする故、諸人おそれけり。また川端なる村には申合せ、先の尖りたる棒を持て、何村は何町が間と間数を定め置き、その棒にて百姓ども打寄り、菅原菩薩々々々々とはやして、千人突をするとかや。不思議なる事にて、それにて今年はあれぬといふ事なり。いかなる故実や知らず。ものをいふ事ならざれども、人間の言語はよく通ずる事妙なりとなり。」
「九州にて筑摩川辺には水虎(かっぱ)多く住みて、人を取りまた妖などする事度々有り。或時川辺に馬をつなぎ置きしに、水虎水中より出て、その馬のたづなをとき、我手にくるくると巻き、水中に追ひ込まんとしけるに、この馬水虎を引ずりて我家
へもどりければ、何れも悦び水虎を散々に戒め、後手にしばり上げ置きけるに、その家の女房椀器の洗汁を持ち、にくき水虎のつらがまへかなとて、その汁をあびせかければ、忽ち頭上に水溜りけるにや、直に縄を引切り逃げ帰りけるとなり。頭上に水なきときは、自由に働きならずといひ伝へける。さも有りしにや。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/03/12 (Sat) 00:55:24
甲子夜話』(10巻)(文政四年起稿)
「御留守居室賀山城守は小川町に住めり。その中間九段弁慶堀の端を通りしに、折ふし深更小雨ふりて闇かりしが、水中よりその中間の名を呼ぶ。因て見るに小児水中にありて招くゆゑ、近辺の小児誤つて陥りたるならんと思ひ、救はんとて手をさし延べければ、即ちその手に取りつくゆゑ、岡へ引上げんとしけるが、その力盤石の如くにして少しも動かず。却て中間次第に水中に引入れらるるゆゑ、始めて恐れ力を極めて我手を引取り、直に屋敷に馳せ帰り、人心地なく茫然となりけり。衣服も沾湿して、その上腥臭の気にたへがたき程なりければ、寄集りて水かけ洗ひそゝげども臭気去らず。その人翌朝にいたり漸々に人事を弁へるほどにはなりしが、疲憊甚しく、四五日にして、常に復せり。腥臭の気もやうやうにして脱けたりとなり。所謂河太郎なるべしと人々評せり。」
(32巻)
「対州には河太郎あり、浪よけの石塘に集り群をなす。亀の石上に出て甲を曝すが如し。その長二尺余にして人に似たり。老少ありて白髪もあり、髪を被りたるも、また逆に天を衝くも種々ありとぞ。人を見れば皆海に没す。常に人につくこと、狐の人につくと同じ。国人の患をなすと云ふ。また予若年の頃、東都にて捕へたりと云ふ図を見たり。右にしるす。これは保中本所須奈村の蘆葦の中沼田の間に子をそだてゐしを、村夫見つけて追出し、その子を捕へたるの図なり。太田澄元と云へる本草家の父岩永玄浩が鑒定せし所にして、水虎なりと云ふ。また本所御材木倉取建のとき、蘆藪を刈払ひしに狩出して獲たりと云ふ。」(※この対馬の河太郎はアシカのことと言われている)
(65巻)
「総じて川童の霊あることは、領邑などには往々のことなり。予も先年領邑の境村にて、この手と云ふ物を見たり。甚だ猿の掌に似て、指の節四つありしと覚ゆ。またこの物は亀の類にして猿を合せたるものなり。或ひは立て歩することありと云ふ。また鴨を捕るを業とする者の言を聞くに、水沢の辺に窺ひ居て見るに、水辺を歩して魚貝を捕り食ふと。また時として水汀を見るに足跡あり、小児の如しと。また漁者の言には稀に網に入ることあり、漁人はこの物網に入れば漁猟なしとて、殊に嫌ふことにて、入れば輙ち放ち捨つ、網に入て挙ぐるときは、その形一円石の如し、これは蔵六の体なればなり、因て即ち水に投ずれば、四足頭尾を出し水中を行き去ると。然れば全く亀類なり。」
『甲子夜話続編』
「早岐の町魚問屋与次兵衛のもとに河童の手とてありときく。とりよせ視るに全からで、掌よりさきのみあり。皮は脱して骨のみなるが、その形は大なる猿ともいはむものにて、指四枝ありて長く屈折三ツあり。爪もつきたるが、狗の爪ともいふべく、先尖り色赭し。年経たりと覚しく乾枯したるに、指のまた水かきと見えしもの残れり。予が蔵し享保の頃江都に捕へし河童の図と想ひ比ぶるに、いかさまその物の手といふも真なるべし。何れにて獲て伝へしか、その由も知らず。ただ祖父の時より有りといふのみ。」

河童史料(随筆要約)

  • 兵主部
  • 2016/03/08 (Tue) 23:41:54
江戸の随筆の河童の要約

『雲南誌』1717年
「出雲西川津村でエンコウが馬を川に引き込もうとしたが、捕えられた。エンコウは許しを請い、「以後この里で災いをなさず」という証文を書き許された。」

『寓意草』1750年
「武蔵国川越近くの荒川支流引又川で少年がが馬を洗っていると馬に河童が憑き逃げ出した。厠で十歳ほどの河童が見つかり村人が殺そうとしたが、和尚がそれを引きとめ河童を釈放した。翌日河童はその礼に和尚の枕元に鮒を置いた。」

『朝野雑載』1734年
「豊後国日田郡梅野村庄屋又兵衛の5,6歳の姪がいつもと違う目の色を見せて訪れ、子供に持てるはずがない重い物を軽々と持ち上げたり、衣服に火をつけたりした。村ではこの事件は河童の仕業と噂された。翌年又兵衛の下女が河童と通じ子を胎んだ。」

『茅窓漫録』
「(火車と魍魎の話…)淮南子の罔両は大和本草の川太郎のことだろう。形は猴のようで円く鼻が長く赤毛をしていて項には皿がある。これは亀の種類であって水に居て人を捕り食らう。」

『善庵随筆』
「水中に入り人を取り殺すものは三種類いて、河童・鼈・蛇である。河童に殺された者は笑いながら溺れ、蛇に殺された者は歯を食いしばりながら溺れ、鼈に殺された者は脇腹に爪のあとがある。溺死した者は水を水を飲み込むため何れも死体の肛門は開くため、臓腑を食うのは誤りである。」

『三養雑記』
「江戸で河童に引かれることは聞くが、河童を確かに見たものはいない。西国では常に河童を見る。聞き及んだことで確かなことは二つあり、畠の茄子に一つごと三,四枚づつ歯型を残らずつけることと、仇をなすこと執念深く筑紫がたにての仇を江戸に逃げても怪があったことを聞く。河童の写真は何れも鼈に似ている。また、子供に化けて現れることがあるが、仏飯を食った子供からは逃げる。」

『筠庭雑録』
「河童の長さは一尺五寸で頸のさらには蓋があり蛤のように被っていて穴の深さは一寸ある。歯は亀のようで奥歯の上下四枚は尖っている。背色は亀のよう。
俗に遍身は蟇の疣がたっているようにかけている。其のさまが胡瓜に似ているので胡瓜を江戸の俗に河童と呼ぶと思っている者が多い。さるではない。
明和二年露丸評万勺合、八重桐は胡瓜好きから事が起る、というのは荻野八重桐と云俳優が中洲の興行で誤って水死したのを河童に引かれたと云う事があったからである。彼が好む物であるからだ。その故に是を河中に流す事などもある。」

メモ
河童の腕きりの話は『博多細伝実録』が初。
『土陽渕岳誌』に河童の駒引き、河童(エンコウ祭り)の記述。
『廣大和本草』の『幽明録』の引用文の水縕の「頭上に一盆戴く」という記述は中村禎里曰く誤り。

ついでに宣伝

  • 兵主部
  • 2016/03/08 (Tue) 23:40:00
以前投稿した河童史料などを纏めた動画をニコニコ動画でUPしています。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm28338731
ニコニコ動画のアカウントをお持ちの方は是非。

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/02/17 (Wed) 01:04:19
明治までの本草書・辞書・百科事典・方言辞書などに記載された河童の記述を書き起こしてみました。出来るだけ間違いが無いように注意しましたが誤読や打ち間違いがあるかもです。□部分は判読出来なかった文字のです。
さて、これらの史料に共通する事として全て河童が「実在するもの」として書かれていることが挙げられます。どうやら江戸時代では河童は実在する生き物として考えられていたようですね。また様々な水怪が河童という名前に収斂した原因は方言辞書や本草学の影響だとも考えられますね。

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/02/17 (Wed) 00:54:33
『水虎考略』(1820年成立、古賀?庵)
※古賀?庵の水虎に対する独自の見解
「関東の所謂水虎は皆老いた巨鼈にして、西海の称する水虎に非ざる也。今主簿の所図を観るに、誠に全然鼈形の者有り。此れ蓋し巨鼈を誤りて水虎之目に膺(うつ)る者にして、其の他は則ち皆儼然として水虎也。予意うに、水虎は蓋し天地間の一怪物、或は是夫子称する処の罔象という者なり。其れ形を変じ、人を誑かし、種々幻怪す。断じて老鼈の所能に非ずと辨ずる也。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/02/17 (Wed) 00:54:01
『千蟲譜』(1811年自序刊年不明、栗本丹州)
「水唐 一名水廬(通雅)山城方言カハタロウ但馬カワロ東都カッパ
本綱渓鬼蟲の附録水虎なり。按ずるに虫類に非ず。□(亀?)及鼈の属なり。九州地方水中に産。豊前後最多し。其大さ四五歳の如し。背と腹との甲あり。首を打ば甲中へ縮入す。手足も亦然り。両手を甲中へ宿入すれば両足伸出すこと鼈と異なることなし。遍体粘滑にして捕へかたし。捕れば青気あり手を洗浄すれども脱去することなしと云。性相撲を好む。夏夕納涼ながら土人水邊に出てみる壮観なりと云。人肝を好み食ふ。胡瓜に人の姓名を書て水に流して其害を免る。
清桐山方以智通雅云水中有物如三四歳小児鱗甲如鮫魚射之不可入七八月中好在磧中自曝膝頭似虎掌爪常没水中出膝頭小児不知欲取戯弄便殺人有生得者摘其皋厭可以小使名為水唐者也
孫汝澄云皋厭者水虎之□(勢?)也可為媚□(薬?)善使内也
昌臧按るに是一種の水妖にして九州水邊此物多ある。或(?)は夜陰深窓を窺て私に婦人と姦通することあり。婦人此物の為に魅惑せられて美少年と思へり。経久自然に精気を吸取れて青痩労瘵となる。輙れば孕することあり。下状の如き異常のものを出産す。これを厨邊のせヽなぎへ倒懸して釣り磔にかくれば水妖はなれて再来らず。□他物に非ず。此物の老たる姦慧ある水虎なりと云。豊の前後孤独の室女此患にてなやむもの多しと云。怖るべきものなり。

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/02/17 (Wed) 00:53:24
『本草綱目啓蒙』(1803年、小野蘭山)巻四八蟲部渓鬼蟲附録
「水虎 カッパ(古歌江戸奥州)ガハタラウ(畿内九州)カワノトノ カハッパ(共同上越後佐州)ガハタロ(京)ガハラ(越前播州讃州)カハコ(雲州)カハコボシ(勢州山田)カハラコゾウ(白子)カハロ(桑名)カハタ(共同上桑名)カダラウ(土州)グハタラウ エンコウ(共同上豫州大州防州石州備後)エンコ(豫州松山)メドチ(南部)ガウゴ(備前)カウラハラウ(筑前)テガハラ(越中)ミヅシ(加州能州)[一名]水唐(通雅)水廬(同上)
諸州皆あり。濃州及び筑後柳川邊尤多しと云。凡そ舊流大江邊時に出て兒童を魅して水に沈まして或は人を誘ひ角力して深淵に引入。其體甚粘滑にして捕へ難し。女青藤(へくそかづら)を以手に纏へば角力勝やすく捕へ易しと云。角力して悩さるヽ者は莽草(しきみ)を用て治すること大和本草に見えたり。性好て胡瓜及白柿を食ふ。白柿三箇許を食ふときは能酔。麻稭及び其灰を忌。蜀黍糕を悪む。若人口に鐵物をくわへ居ば水に引入ること能はず云。其形状は人の如く兩目圓黄鼻は突出し獼猴の如し。口は大にして狗の如く歯は亀歯の如く上下四牙尖れり。頭に短髪あり色赤し。額上に一孔あり深さ一寸。上に蓋ありて蛤の如し。面は青黒色背色は亀甲の如く其堅きことも同じ。腹も亀版の如にして黄色なり。左右脇下に一道の竪条あり柔軟にして白色なり。この処を執るときは動くこと能わずと云。手足の形は人の如く青黒色にして微黄色を帯。四指短くして爪長く指間に蹼あり。手足を縮るときは
皆甲版の間に蔵るヽこと亀に異ならず。手足の節前後に屈すること人に異なり。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/02/17 (Wed) 00:52:49
『物類称呼』(1775年、越谷吾山)
「川童がわたろう 畿内及九州にて、がわたろう、又川のとの又川童(かわつは)と呼ぶ、九州に多し、わきて筑後の柳川尤多し、周防及石見又四国にて、えんこうといふ、
土佐の土民はぐはたろう、又かだらう、又えんこうともいふ、其手胘よく左右に通りぬけて滑なり、猨猴に似たるが故に河太郎もえんこうといふ、
東国にかつぱと云、川わつぱのちぢみたる語也、小児をしかるにもかつぱともいふ、越中にてがはらと云、伊勢の白子にて、かはら小僧といふ、
其かたち四五歳ばかりのわらはのごとく、かしらの毛赤うして、頭に凹なるさら有水をたくはふる時は、力はなはだつよし性相撲を好み、人をして水中に引入れんとす、或は恠をなして婦女を姦媱す、其わざはひを避るには、猿を飼にしかずとなん、又九州には河渉の人□吟する哥に
いにしへのやくそくせしをわするなよ川だち男氏は菅原
右の哥を吟□すれば害をのがるるよしいひ伝ふ」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/02/17 (Wed) 00:52:11
『日本山海名物図会』(1754年、平瀬徹斎)巻之三「豊後河太郎」
「形五六歳の小児のごとく、遍身に毛ありて猿に似て眼するどし。常に濱辺へ出て相撲取也。人を恐るゝことなし。され共間ぢかくよれバ、水中に飛入也。時としてハ人にとりつきて水中に引入レて、其人を殺す事あり。河太良と相撲を取たる人ハ、たとへ勝ても正気を失ひ大病をうくると云。しきみの抹香、水にてのましむれバ正気に成と也。河太良、豊後国に多し。其外九州の中所々に有。関東にてハ河童(かわわらは)と云也。」

Re: 河童史料集(3/11追記)

  • 兵主部
  • 2016/02/17 (Wed) 00:51:12

『和漢三才図絵』(1712年成立、寺島良安)巻四十 寓類怪類
「水虎 本綱水虎は襄沔記注に云中廬縣に涑水有て沔中に注ぐ。物有り三四歳の小兒の如く甲は鯪鯉の如く射ても入ること能はず。秋沙上に曝す。膝頭虎掌爪に似たり。常に水を没し膝を出だして人を示す。小兒之を弄べば便ち人咬む。人生きながら得者に其の鼻を摘んで之を小使にすべし。
按ずるに水虎の形状本朝川太郎之類にして異同有り。而未だ聞かず此くのごとき物有るや否や。」
「川太郎 深山に山童有り。同類異也。性好みて人の舌を食ふ。鐵物を見るを忌む也。
按ずるに川太郎は西國九州溪澗池川に多く之れ有り。状ち十歳許の小兒の如く。裸形にて能く立行して人言を爲す。髮毛短く少頭の巓に凹一匊水を盛る。毎に水中に棲みて夕陽に多く河邊に出でて瓜茄圃穀を竊む。性相撲を好み人を見れば則招きて之を比べんことを請ふ。健夫有て之に對するに先づ俯仰して頭を揺せば乃ち川太郎も亦覆仰くこと數回にして頭の水流盡ることを知らず力竭て仆る。如其の頭、水有れば則力勇士に倍す。且つ其の手の肱能く左右に通り脱て滑利かなる故に之を如何ともすること能はざる也。動もすれば則牛馬を水灣に引入れて尻より血を吮盡すなり。渉河する人最も愼むべし。
いにしへの約束せしを忘るなよ川だち男氏は菅原
相傳菅公筑紫に在りし時に所以有りて之を詠せらる。今に於て河を渡る人之を吟すれば則川太郎之災無しと云云。偶々之を捕ふる有ると雖も後の祟を恐れて之を放つ。」
(肥前国の項目に有)
(肥前国)
「ひやうすへよ川たちせしを忘れなよ川たち男我菅原
此辺多く水獣(かわたろう)有り。人を捕は渉河人件の歌を竹の葉に書て川に投れは、則水虎(かわたろう)害を為さずと云。
又長崎之辺に渋江文太夫と称する者有り。能く水虎を治む、嘗て符を出す。河を渉る人其の符を携ふれは、則害あらず。或時壮士等有り、戯礫を海中に飛ばす若干也。是水虎渋江の家に来て告て曰く、長崎官令黒田家の西泊營從り、我が栖に礫を投げる。若し累日止まずんば、則為めに彼の家に対して災ひ害せん也。因て渋江上件趣を訴ふ。人ミナ以奇為。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/02/17 (Wed) 00:50:22
『大和本草』(1709年成立、貝原益軒) 獣部
「河童(カハタラウ) 処々大河にあり、又池中にあり。五六歳の小兒の如く、村民奴僕の独行する者、往々於河辺逢之、則精神昏冒すと云。此者好んで人と相抱きて角力、其身延滑にして捕定がたし。腥臭満鼻。短刀にて欲刺不中。角力人を水中に引入れて、殺すことあり。人に勝つことあたはざれば、没水而見えず。其人忽恍惚として如夢而帰家。病こと一月許、其症寒熱、頭痛、遍身疼痛、爪にて抓たるあと有之。此物人家に往々為妖、種々怪異を為して人を悩す事あり。狐妖に似て其妖災猶甚し。本艸綱目蟲部、湿生類、渓鬼蟲の附録に水虎あり。與此相以て不同、多但同類別種なるべし。於中夏之書、予未見有此物。」
※ページ上部に以下の書き込み有り
「奥州にてカワツパと云。これ童をワツハと云る故なり」
「南部東北方の海濱にて河童夜人家に入て婦女を犯し芳事をなす。其時其女夢の如しと云。其子を妊むことありと云。」
『大和本草』附録巻一
「河太郎と相撲とりたる人正氣を失ひ病するにしきみの木の皮をはぎ抹香とし水にかきたて呑すれば忽正氣になり本復す。屢用て効ありと云。(以下略)」
『大和本草』附録巻二
「トロンベイタ 蛮語なり。川太郎の事也。其骨を薬に用ゆ。」
「魍魎 淮南子に説く状三歳の小兒の如し。赤黒色赤目長耳美髪。左傳の註疏に魍魎は川澤の神也。篤信曰此説を見れば魍魎は河童(ガワタロウ)なるべし。クハシヤにあらず。又クハシヤを魍魎とする説あり。又河童と相撲とりて病するを治する法右の木類に莽草を用る事を記す。」

Re: 河童史料集

  • 兵主部
  • 2016/02/17 (Wed) 00:49:43

『本朝食鑑』(1697年、人見必大) 鼈の項目に有
「近時水辺に河童という者有り。能く人を惑わし、或は謂く大鼈の所化なり、と。故に面醜く形童の如し。肌膚に多く(月+畾)(月+鬼)(※=コブ?)ありて青黄色。頭上に凹有りて常に水を貯め、水有らば則ち多力にして制し難く、水無ければ則ち之を捕えるは可なり。是に於いて若し人に遇えば、必ず先に腕を挙げ拳を掉って急いで彼の頭を拊てば則ち斃る。伝聞。海西諸国此物多く魅を為して邪魔をし人を害す。土人所謂大鼈に非ずして老獺の所化なり。其れ物類の変化は測り難し。海国に最も多きは此の族なり。」